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映画『岸辺露伴は動かない 懺悔室』考察|幸福の呪いとは何だったのか【ネタバレあり】

『岸辺露伴は動かない 懺悔室』のロケ地ヴェネツィア 映画

全編ヴェネツィアでの撮影が行われた本作。

背景がやはり日本とは違うので、それだけでも目を楽しませてくれる。

さて、この作品のテーマは「呪い」。

不穏な気配が漂うが、これこそが岸辺露伴の世界なのだろう。

まだ作品を見ていないという方は、こちらの記事をどうぞ!

田宮に降りかかる2つの呪い

浮浪者であるソトバの死の原因をつくってしまった田宮は、「幸せの絶頂にいるときに絶望を味わわせてやる」と呪いをかけられてしまう。

この呪いから逃れるために策を考えた田宮は、今度は水尾にも恨まれることに。

水尾からかけられた呪いは「娘が幸せの絶頂にいるときに絶望を味わう」というもの。

田宮は幸せを少しずつ手放し、どうにか幸せの絶頂に達しないようにしようとするも、娘が結婚を控え、幸せを手に入れようとする。

田宮は死への恐れから、娘の結婚を阻止しようとあらゆる手を尽くすのだが――

結局、呪いとはなんだったのか

露伴の活躍により、娘が死んだと思い込んだ田宮。

娘の死を悲しんだすぐあとに「これで助かった……」とつぶやいて立ち去るシーンは、印象的だ。

田宮は父であるのにも関わらず、「もう今後娘に幸せが訪れることがない」ことに安堵したのだ。

死への恐怖がそれほどまでに大きくなっていたのだろう。

彼にとって、娘の死はもはや絶望ではなくなっていたのかもしれない

だからなのか、娘が死んだと思われたあとも、ソトバや水尾の呪いは続き、田宮につきまとっていた。

呪いが続いた要因としてもうひとつ考えられるのは、娘が実際は死んでおらず、結婚し幸せを手に入れたためというものがあげられる。

しかし、ソトバが田宮と水尾の入れ替わりに気づいていなかったことから、娘死亡の演技もソトバや水尾に対して効果があったと考えられる。

ここでひとつの疑問が生まれる。

ソトバはなぜ田宮の幸せの絶頂という感情に気づけたのに、田宮と水尾の入れ替わりには気づけなかったのか。

呪いは、田宮の罪悪感が生み出したものなのだとしたらどうか。

それであれば、ソトバが田宮の感情に気づけたのに、入れ替わりに気づかなかったのも説明がつく。

しかし、一方で理屈が通らない面がある。

「田宮がソトバの死の原因になった」という事情を知らなかった水尾にも、ソトバは見えていた。

さらに、ソトバと会話までしてポップコーン対決をやらされたうえに、逃げた先で死亡している。

他者に見えていて影響も与えている。そう考えると、田宮の罪悪感が生み出した産物説は否定される。

結局は、ソトバの呪いは本物であったと考えるのが妥当だろう。

ソトバが田宮と水尾の入れ替わりには気づけなかった点は、「顔を覚えたからな」というセリフが伏線になっていたように思われる。

呪いの真の意味

本編で登場する「幸せが襲いかかってくる」という言葉。

原作を知らないため、予告で聞いたときに「どういう意味だろう」と思っていたが、まさに「幸せが襲いかかってくる」という表現がぴったりであった。

呪いの力は、どうにか田宮を幸せにしようと次々と幸運をしかけてくる。

それに対し、田宮は幸せの絶頂に達しないように、縁起の悪いことをしたり、あえて幸せを少し手放したりする。

幸せの絶頂に達したあとの絶望が怖いからだ。

だが、それこそが真の呪いだったのではないだろうか。

どれだけ幸運がやってこようとも、「幸せになってはいけない」と常に恐れ、怯えている。

この状態はかなりのストレスだ。

「幸せの絶頂にいるときに絶望を味わわせてやる」

この言葉自体が呪いとなり、田宮を縛りつけていた。

幸せを恐れ、幸せにならないようにして生き続ける。

四六時中、幸せに怯えながら生きることは辛い。

だって、それは「一生幸せになれない」ということに他ならないのだから。

一生ついて回る、幸福への恐れ

それこそが呪いの効果なのだ。

nanakko

元司書で現ライターのnanakkoです。
ヒューマンミステリ専門ブログ「エンタメ自由帳」を運営しています。
 
子どものころから本好きで、大学では小説創作を専攻。
会社員を経て、国立大学図書館の司書に。
 
このブログでは、作家や今の気分、映像作品といった切り口で、ヒューマンミステリ作品を紹介します!
 
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